東京地方裁判所 昭和48年(ワ)6015号 判決 1979年7月30日
原告
飛鳥井広
原告
飛鳥井美代子
右両名訴訟代理人
菊池武
外三名
被告
医療法人財団秀行会
右代表者理事
阿部秀世
外二名
右三名訴訟代理人
高田利広
同
小海正勝
主文
一 被告らは各自、原告飛鳥井広に対し、金九六六万六九三一円および内金九一六万六九三一円に対する昭和四七年一一月二八日から、内金五〇万円に対する本判決確定の日の翌日からいずれも完済に至るまで年五分の割合による金員を、原告飛鳥井美代子に対し、金九三〇万三〇三七円および内金八八〇万三〇三七円に対する昭和四七年一一月二八日から、内金五〇万円に対する本判決確定の日の翌日からいずれも完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用はこれを五分し、その二を原告らの負担とし、その余を被告らの負担とする。
四 この判決は第一項記載の認容金額につき、各三分の一の限度において仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは各自、原告飛鳥井広に対し、金三一四八万八六三五円および内金二八六九万八六三五円に対する昭和四七年一一月二八日から、内金二七九万円に対する昭和四八年八月一七日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を、
原告飛鳥井美代子に対し、金三〇七四万八五二九円および内金二七九五万八五二九円に対する昭和四七年一一月二八日から、内金二七九万円に対する昭和四八年八月一七日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行の宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 当事者
(一) 原告らの身分関係
原告飛鳥井広(以下原告らの姓は省略する)は訴外亡飛鳥井信幸(以下「信幸」という)の父であり、原告美代子は信幸の母である。
(二) 被告らの地位
被告医療法人財団秀行会(以下「被告秀行会」という)は、肩書地において、産婦人科および外科の診療業務を行う阿部医院を経営し、被告井出鋭次(以下「被告井出」という)は被告秀行会に雇用され同医院において外科を担当する医師であり、被告阿部秀世(以下「被告阿部」という)は被告秀行会の代表者でありかつ阿部医院の院長である。
2 麻酔注射と信幸の死亡
信幸は、昭和四七年一一月六日阿部医院において、被告井出より腰椎穿刺による麻酔薬ぺルカミンS1.8CCの注射(以下「本件麻酔注射」という)と虫垂切除手術を受けて同医院に入院していたところ、髄液の緑膿菌感染による急性脳脊髄膜炎に罹患し、同月一四日に東京女子医科大学病院に転院したが、同月二七日同病院において死亡した。
3 緑膿菌の感染経路
信幸の髄液から発見された緑膿菌は、本件麻酔注射のための器具類、施術者である被告井出の手指または信幸の注射部位に付着していた緑膿菌が本件麻酔注射の際に脊髄腔内に侵入したものである。
4 被告らの責任
(一) 不法行為責任
(1) 被告井出の民法七〇九条に基づく責任
信幸の死亡と被告井出の後記(イ)、(ロ)の過失との間にはそれぞれ相当因果関係がある。
(イ) 被告井出は本件麻酔注射をするにあたり、注射器具、自らの手指および信幸の注射部位等を完全に消毒(再汚染の可能性ある場合の再消毒を含む)すべき注意義務があるにもかかわらずこれを怠り、それらに付着していた緑膿菌を信幸の髄腔内に侵入させた。
(ロ) 被告井出は、信幸が昭和四七年一一月七日夜半から翌八日朝方にかけて急に発熱し、頸筋および頭芯の痛みを訴え、次第に排尿困難、下肢麻痺等の症状を呈し始め、その後も髄膜炎に顕著な症状が継続、悪化したのであるから、医師として当然、髄膜炎を疑い病源を確認し、適切な治療行為を行うべき注意義務があるのにこれを怠り、同月一一同に至りようやく髄膜炎の疑いを持ち始めた。のみならず、同月以降も抗生剤ポリミキシンBの髄腔内注入等適切な治療をせず、さらに同月一二日看護婦に対する指示を徹底しなかつたため、看護婦が信幸に対し指示量の三倍量の副腎皮質ホルモン(デカドロン)を誤つて投与し、同人の体温を急激に低下させ、また糖尿病を併発させるなどしてその身体の抵抗力を奪つて症状を悪化させ遂に死に至らしめた。
(2) 被告秀行会の民法七一五条一項に基づく責任
被告秀行会は被告井出の使用者である。
(3) 被告阿部の民法七一五条二項に基づく責任
被告阿部は被告秀行会に代つて被告井出を監督する立場にあつたものである。
(二) 被告秀行会の債務不履行責任
(1) 信幸と被告秀行会は昭和四七年一一月六日信幸の虫垂切除手術を行う診療契約を締結した。
(2) 被告秀行会の履行補助者である被告井出は、右契約の本旨に従つた履行をしない。
(3) よつて、被告秀行会に対しては、民法四一五条に基づく債務不履行責任を合わせて選択的に主張する。
三 被告らの反論
1 被告井出は、本件麻酔注射を施すにあたり、注射器具、手術用手袋の滅菌及び施術者の手指、注射部位の消毒を完全に実施した。すなわち、
(一) 阿部医院の入院患者には、当時化膿性疾患によるものはなかつたし、その前後の多数の症例に対する注射部位の感染例、および髄膜感染例は全くなかつた。同医院では開頭手術が施行されている関係上、医師、看護婦の細菌感染に対する認識は極めて強く、滅菌はいうまでもなく、すべての消毒は厳重に行われており、とくに腰椎麻酔に使用する器材などはすべてクレゾール原液浸せき水洗、煮沸消毒保存、高圧蒸気滅菌、ガス滅菌の方法を用いている。
(二) 本件事故後、すべての腰椎麻酔関連器材の培養検査を練馬区医師会医療検査センターに依頼した結果は、すべて陰性であつた。
2 本件髄膜炎と本件麻酔注射などに関する滅菌および消毒との間に相当因果関係はないし、仮にそうでないとしても、本件髄膜炎感染の原因につき被告井出に過失はない。すなわち、
(一) 本件緑膿菌の侵入経路は、手術直後に悪感、頭痛、発熱(敗血症様症状)があつたこと、又来院前の体調発熱、虫垂の壊疽化膿のひどかつたことを考えると、同菌が虫垂の化膿によつて虫垂壁から血液に侵入し、それが血行により髄膜に感染した血行性感染によるものである。したがつて、本件髄膜炎は本件麻酔注射によるものではない。
(二) 或いは、本件髄膜炎は、本件腰椎麻酔薬がアンプル内ですでに汚染されていたことによるものである。この場合には、本件麻酔注射前にその汚染を発見することは臨床医にとつて不可能であるから医師の過失ではない。
(三) 或いは又、信幸の皮膚内又は皮膚表面に存在した緑膿菌が穿刺針により髄膜に押し進められたことによるものである。この場合、皮膚内の同菌の滅菌、消毒は臨床医にとつて不可能であり、皮膚表面の同菌は完全な消毒方法を施してもその完全な滅菌は不可能であつて、本件の場合、完全な消毒方法にもかかわらず死滅を免れた同菌によるものであるから、医師の過失ではない。
3 被告井出の治療行為は次のとおり適正であつた。
(一) 本件のように髄膜炎症状のあらわれない状態においては、患者について項部強直、ケルニツヒ症候等の発現の有無を頻繁に調べることおよび抗生剤の注射を持続することが、一般開業医として最善の診療方法であることろ、
(1) 被告井出は、手術直後の一一月六日午後〇時一五分ころ、看護婦藤野を通じて信幸が頭痛を訴えている旨の連絡をうけ、診察したところ、信幸は悪感と頭痛で頭を両手で押えており(体温三八度)、被告井出はその異常さに気づいたが、右異常さから直ちに髄膜炎と診断することは、項部強直等の髄膜刺激症状の発現しない時点においては至難であり、虫垂炎手術後の髄膜炎併発が稀有なことからしても、かく診断しないのはむしろ当然である。
(2) 被告井出は術後経過と診断し、下熱剤メチロンとデカドロンを投与したところ、八日から九日にかけて体温も降下し、頭痛も消失した時期があり、その時点では、前記症状はすべて術後経過に時折見られるものと判断された。
(3) 被告井出は外科医としての一般的警戒として、手術直後から髄膜炎の疑いにも留意していたが、度々の診察にも拘らず、項部強直、ケルニツヒ症候は認められなかつた。この間、被告井出はクロマイ注射を継続しつつ様子をみたが、本件は緑膿菌による感染であつたため、その効果がなかつた。
(二) 一一日午後から項部強直ケルニツヒ症候が発現し髄膜炎であることが明確となつたので、被告井出は、
(1) 同日午後から、抗生剤セフアメジン、リンコシンを投与したが、右注射は抗菌力、薬量とも強力かつ充分なものであつて、病原菌不明の時点では最適の治療法である。
(2) また、脳浮腫予防、除去と消炎鎖痛の目的でデカドロンの大量注射を行つた。このデカドロン注射は人体の抵抗力を回復させるのに極めて適切な手段である。
また、それによつて糖尿病にかかつたとの原告らの主張は、デカドロンの使用が短期であることから根拠がない。
(三) そして一二日には髄液検査(混濁確認)をしたうえ、最善を尽くすため大学病院への転院をすすめたが、満床とのことで、一四日になつて東京女子医科大学病院へ転院したものである。同病院において、入院直後から緑膿菌感染による急性脳脊髄膜炎に対する強力な髄腔内穿刺治療など十分な治療が行われていたならば、救命しえたことはいうまでもなく、医学上それがなされるべきであつたことも多言を要しない。
第三 証拠<省略>
理由
一当事者
原告広、同美代子が信幸の父母であること、被告秀行会が肩書地において産婦人科および外科の診療業務を行う阿部医院を経営し外科担当医師として被告井出を使用していること、被告阿部は被告秀行会の代表者であり阿部医院の院長として、被告秀行会に代つて被告井出を監督する地位にあつたものであることは、いずれも当事者間に争いがない。
二信幸の死亡に至る経緯
1 信幸は、昭和四七年一一月六日阿部医院において、被告井出により腰椎穿刺による本件麻酔注射を受けた後、同人の執刀による虫垂切除手術を受け同医院に入院していたところ、同月一四日に至り東京女子医科大学病院に転院し、同月二七日同病院において髄液の緑膿菌感染による急性脳脊髄膜炎のため死亡したことは当事者間に争いがない。
2 前記1の事実並びに<証拠>を総合すると、次の各事実を認めることができる。
(一) 信幸は、昭和四七年一一月五日、東京都立大学法学部三年生のサツカー部員としてサツカーの試合に出場した後、午後六時三〇分ころ帰宅し、入浴、夕食後、午後八時ころより家庭マージヤンをして翌六日午前〇時三〇分ころ就寝した。
(二) 信幸は、同日午前二時ないし三時ころ両親に対し腹痛を訴え、午前八時ころ阿部医院に行き被告井出の診察を受けたところ、同医師に急性虫垂炎の診断を下された。
(三) 被告井出は同日午前一〇時二九分ころ、信幸に対し、麻酔薬ペルカミンS1.8CCを腰椎注射した後、午前一〇時三六分より同一一時一五分までの間に、信幸に対し交さく切開による虫垂切除手術を施し、右手術は順調に終了し、虫垂炎自体の術後の経過は良好であつた。
(四) 右手術終了後、約一時間を経過したころから、信幸は悪感、頭痛を訴えはじめたので、被告井出は症状に疑問を持つたが、同月七日には劇しい頭痛と高熱(三九度)があつたため、下熱鎮痛剤メチロン等を注射した。翌八日には感染性脳脊髄膜炎の疑を持ち、副腎ステロイド剤であるデカドロンを注射したところ、一旦下熱の傾向を示したが、一〇日には体温が再上昇した。この間被告井出はクロマイ注射を継続して症状を観察していた。
(五) 一一日に至り、被告井出は、信幸の激裂な頭痛、高体温(39.4度)に加えてケルニツヒその他の病的反射、項部強直の発現を他覚的に確認したので髄膜炎の疑を強く抱き、原因菌不明のため一四日まで抗生剤セフアメジン、リンコシンの筋注、点滴内静注による化学療法を施した。
(六) 一二日午前一一時三〇分、被告井出は腰椎穿刺により信幸の髄液を検査したところ、髄液の軽度混濁を認めたため、髄膜炎感染症をほぼ確認し、抗生剤とともにデカドロンを大量に投与した結果、発熱等の症状は一時改善した。
(七) 翌一三日、被告井出は、右髄液を練馬区医師会医療検査センターに送付したところ、同センターにおける髄液培養の結果、グラム陰性桿菌の存在が発見され、翌一四日には、これが緑膿菌らしいことが判明したので、その旨被告井出に通知された。
(八) 一四日、被告井出は、信幸の病歴書に右髄液検査の報告書を添付して東京女子医科大学小山教授宛に今後の加療方を依頼し、同人を同大学病院に転院させた。同病院では、当初三神内科教室の長田医師が信幸の担当医となつた。
(九) 翌一五日、同大学病院において、腰椎穿刺により信幸の髄液を採取したところ、白濁しており白い浮遊物がみられた。翌一六日には髄液より緑膿菌が検出され、引続き培養、耐性検査の結果を待つこととし、その間緑膿菌に有効な抗生剤ゲンタマイミン、グリペニン等の注射、鎮痛剤等の投与がなされた。
(一〇) 同月二〇日、信幸の担当医が長田医師から阿部澄子医師に交替し、申しおくり事項として信幸の髄液から緑膿菌が発見されていること等経過報告および被告井出からの前記書簡を参照されたい旨伝えられた。しかし同医師は内科、呼吸器科が専門であつて、それ以前に緑膿菌髄膜炎の患者を治療した経験が全くなかつた。
(十一) 翌二一日、三神教授が診察のうえ、阿部医師に対し抗生剤の髄腔内注入を指示したので、同医師らは信幸に対して同日以降数回にわたり腰椎穿刺による抗生剤の髄腔内注入を試みたが、すべて失敗に終つた。
(十二) その後も信幸は強度の頭痛等を訴え、同月二七日午前三時五〇分、遂に急性脳脊髄膜炎で死亡するに至つた。
三緑膿菌の侵入経路
被告らは、本件の感染経路は、信幸の虫垂の化膿により、緑膿菌が虫垂壁から血液中に入り、血行により髄膜に感染した血行性感染であると主張するので、まずこの点について検討する。
<証拠>には、患者が非常に疲労した直後に虫垂炎の手術をした場合、一時的に血液中に菌が入り増殖して髄膜炎に移行する可能性があり、血行性の感染を全く否定できない旨の記載並びに供述があるが、右はきわめて稀有な事例であつて推測の域を出ないし、ことに本件においては解剖所見がないのみならず血液培養検査もなされていないうえ、信幸が虫垂切除手術の前日サツカーの試合に出場し、そのために体力を消耗し疲労困憊の状態にあつたとか重篤な基礎疾患があつたものと認めるべき証拠もないので、緑膿菌感染が虫垂炎からの血行性転移によるものとは認められない。
そこで信幸の死亡に至る前記認定の経緯に<証拠>を総合すると、信幸の髄液内より発見された緑膿菌は、被告井出が一一月六日信幸に施した本件麻酔注射の際、同人の髄液内に侵入したものと推認できる。
四被告井出の過失
1 本件麻酔注射の際の被告井出の処置
本件麻酔注射の際に緑膿菌が信幸の髄腔内に侵入した場合に考えられる原因としては、(一)被告井出の本件麻酔注射に際しての自らの或いは補助者の手指、使用する注射器具、注射部位のいずれかの消毒または滅菌の不完全、(二)麻酔薬のアンプル内における緑膿菌汚染、(三)穿刺針により皮膚表面に存在した緑膿菌が髄膜内へ押し込められた、のいずれかであることが考えられる。
しかし、右(二)のアンプル内汚染については、<書証>、(北本治責任編集「臨床内科全集」第一〇巻)に、原発性の緑膿菌の髄膜感染について、侵入門戸の全く不明のものはまれで、汚染された薬液の注入、脳手術、頭部の開放性外傷の後にクモ膜下腔が汚染さんた場合等に髄膜炎を起こす方が多い旨記載されているが、被告井出の使用した注射液が汚染されていたことを疑うに足りる特段の証拠のない以上、右記載の一事をもつて注入された麻酔薬が感染の原因であるとは到底考えられない。
次に(三)の穿刺針により緑膿菌が押し込まれた可能性についても、<証拠>には、腰椎穿刺部位の皮膚の消毒は、いかに厳重に行つても、毛のう内の細菌まで全て除去することは不可能であり、毛のう内の細菌が穿刺の際、髄腔内へ押し込まれる可能性は否定できず、その可能性は手術室の空気中に浮遊する菌が針について押し込まれる可能性よりも多い旨の記載並びに供述があるが、鑑定の結果によれば、皮下組織は通常無菌に保たれているはずであり、穿刺針により皮膚表面の緑膿菌が押し込まれたとすれば、患者の穿刺部分の皮膚の消毒不完全に帰することになり、前記(三)が本件感染の原因であるとも考えられない。
してみれば、被告井出は本件麻酔注射の際、自らの或いは補助者の手指、使用する注射器具、注射部位の全てを完全に消毒または滅菌すべき注意義務があるにもかかわらず、これを怠り、右のいずれかの消毒または滅菌(滅菌後の再汚染がないとはいえない)が不完全であつた点に過失があつたものと推認するほかない。もつとも、被告本人井出の供述によると、阿部医院では、手術室を清浄に保ち、腰椎麻酔に使用する器材等はすべて乾燥滅菌を行い、医師、看護婦らは必ず事前に手指、術衣等を滅菌消毒していたこと、被告井出は信幸が転院した後、注射器材を消毒のうえ消毒液とともに、練馬区医師会医療検査センターへ送付し、培養検査を依頼した結果、すべて陰性であつた旨の報告を得ていることは窺われるが、本件麻酔注射に使用した器材がそのまま直ちに検査されているわけではないから、右事実は未だもつて、前記認定を左右するに足りない。
2 本件麻酔注射後の被告井出の診断および治療
原告らは、被告井出の髄膜炎診断が遅れ、髄膜炎の疑いをもつた後も適切な治療を怠つた点および副腎皮質ホルモンデカドロンを誤つて大量投与したため信幸の抵抗力を奪つた点に過失がある旨主張するので、さらにこの点について判断する。
前記認定のとおり、被告井出は、一一月一一日に至り、信幸の高熱、頭痛のほか項部強直を他覚的に確認して髄膜炎を強く疑い、翌一二日午前一一時三〇分に腰椎穿刺による髄液検査を行つて髄膜炎感染をほぼ確認しているが、鑑定の結果によれば、細菌性髄膜炎は、発熱、頭痛、意識障害、項部強直、ケルニツヒ徴候、比較的徐脈その他の神経症状から本症を疑うことができ、髄液検査でほぼ診断が固まるというのであるから、本件において、開業外科医である被告井出が信幸の項部強直発現以前に髄膜炎の診断を下すことは事実上困難であるうえ、髄液検査の時期もさほど遅延したものとはいえない。
また鑑定の結果によれば、髄膜炎の原因菌が判明しない段階において、医師がいかなる化学療法を選択するかの判断には困難が伴うところ、本件においては、少なくとも一一月一四日に緑膿菌が確認される以前に使用された抗生剤の使用量がやや少なく、自然耐性を有する緑膿菌には結果的に効果がなかつたわけであるが、原因菌不明の段階ではやむをえないことであつて、被告井出のした化学療法が誤つていたとは即断できない。
また、<証拠>によると、阿部医院の看護婦はカルテの指示を読み違え、誤つて信幸に対し、デカドロンを一一月一二日正午、午後八時、一三日午前四時に各一二ミリグラム、同日正午に四ミリグラム、午後八時および一四日午前四時に各八ミリグラム投与したことが認められるが、鑑定の結果によれば、重症感染症では抗生剤とともにデカドロン等の副腎ステロイド剤が併用されることがよくあり、本件においてもデカドロンの大量投与により発熱等の症状は一時改善したが、反応性の糖尿が出て、結果的には原疾患によい影響を与えたとは考えられないが、むしろ緑膿菌を強く攻撃する抗生剤が選択されなかつたことの方が重要な問題である。したがつて、デカドロンの大量投与により信幸の身体の抵抗力を奪い症状を著しく悪化させたとは断定できない。
そうだとすると、本件麻酔注射後の信幸に対する診断、治療行為に関して被告井出に過失があつたものとは認められない。
五因果関係
1 右認定の事実関係からすると、信幸は緑膿菌感染による急性脳脊髄膜炎のため死亡したものであり、右緑膿菌感染の原因は、被告井出が注射器具等の消毒、滅菌を完全に行わずに本件麻酔注射を施したために、注射器具等に付着していた緑膿菌を信幸の髄腔内に侵入せしめたことにあるから、信幸の死亡と被告井出の右過失との間には相当困果関係が存するものといわなければならない。
2 ところで、<証拠>を総合すると、髄腔内汚染による緑膿菌髄膜炎に対しては、髄腔内に緑膿菌の抗生剤であるポリミキシンB、ゲンタマイシン等を直接注入することが不可欠の化学療法であり、敗血症の分症として緑膿菌髄膜炎が続発したもの(本件はこれに当らない)以外は、右化学療法が施行された場合きわめて高度の治癒率があり、すでに本件麻酔注射当時、一般の医学書ないし医学専門雑誌にその旨公表されていたこと、したがつて被告井出においても、信幸を東京女子医科大学病院に転院させるに際し、同大学小山教授宛に送付した同人の病歴書に、髄腔内抗生剤注射が残された加療方法であるが、感受性検査の結果を待ちたく我慢している旨報告しているにもかかわらず、前記のとおり右大学病院で約二週間の治療期間があつたのに、担当医師阿部らは経験不足による技術未熟のため、抗生剤の投与量も過少であるうえ右加療方法をすべて不成功に終らせ、最も有効適切な化学療法が施行されることなく、不幸にも信幸は死亡するに至つたことが認められる。
前記認定のような信幸死亡に至る経緯、被告井出および東京女子医科大学病院の信幸に対する各処置等その他本件に顕われた諸般の事情を考慮すると、被告井出自身の過失による不法行為上の損害賠償責任の関係においては、信幸死亡に対するその起因力を一〇分の六と評価し、その限度において被告らの損害賠償責任を肯定するのが相当である。
六被告らの損害賠償義務
以上の次第であるから、被告井出は民法七〇九条の不法行為に基づき、同秀行会は同法七一五条一項の使用者の地位に基づき、同阿部は同条二項の代理監督者の地位に基づき、前記因果関係の帰責割合に応じてそれぞれ原告らが被つた後記損害を賠償する義務がある。
七損害額の算定
1 原告両名が相続した信幸の損害賠償請求権
(一) 信幸の逸失利益
<証拠>を併せ考えると、信幸は昭和二六年一月二日に出生し、同四七年一一月二七日に死亡した当時は都立大学法学部三年生でサツカー部員として活躍し健康体であつたことが認められるところ、原告ら主張のとおり、信幸は少なくとも昭和四九年より昭和八八年まで就労可能であつたものといえるので、昭和四九年、同五〇年については、各年の賃金センサス第一巻第一表、産業計男子労働者新大卒二〇―二四才企業規模計の年収<証拠略>、昭和五一年から昭和八八年までについては、昭和五一年の前記賃金センサスによる年収額合計<証拠略>の総収入より五割の生活費を控除し、中間利息の控除方法としては、民事法定利率によるライプニツツ方式を用いるのが相当であるから、これらにより信幸の死亡時の逸失利益現価額を算定すると、次のとおり合計金二四三四万三四五七円(円位未満切捨、以下同じ)となる。<中略>
そして、右逸失利益額のうち、被告らにおいて負担すべき金額は、その六割に相当する金一四六〇万六〇七四円となる。
(二) 信幸の慰謝料
信幸の取得した慰謝料請求権の額は、すでに認定した信幸が阿部医院等において受けた苦痛、被告井出の過失の内容、程度、困果関係の割合その他諸般の事情を斟酌すると、金一〇〇万円をもつて相当と認める。
(三) 原告両名の相続
原告両名が信幸の父母であることは当事者間に争いがないから、原告らは各自信幸の相続人として、同人の逸失利益と慰謝料合計金一五六〇万六〇七四円の二分の一に相当する金七八〇万三〇三七円の損害賠償請求権を相続した。
2 原告広に生じた財産的損害
(一) <証拠>によれば、原告広が支出した病院関係費用は金二五万六四九〇円と認められるので、このうち被告らが負担すべき金額は、その六割に相当する金一五万三八九四円となる。
(二) <証拠>によれば、原告広は、信幸の死亡による葬儀費用、墓地購入費の一部その他諸雑費を含め金四八万三六一六円の支出をしたことが認められるが、すでに認定した信幸の年令、社会的地位等に鑑みると、右のうち金三五万円を信幸の死亡と相当困果関係にたつ損害と認定するのが相当である。したがつて、このうち被告らが負担すべき金額はその六割に相当する金二一万円となる。
3 原告両名の慰謝料
信幸の死亡により原告両名が被つた精神的苦痛に対する慰謝料は、すでに認定した被告井出の過失の内容、程度、因果関係の割合、その他一切の事情を斟酌すると、原告両名に対し各金一〇〇万円をもつて相当と考える。
4 弁護士費用
弁論の全趣旨によれば、原告らは、被告らが右損害金を任意に弁済しなかつたため、原告訴訟代理人らに対し、本件訴訟の提起、追行を委任し、相当額の報酬の支払を約束したことが認められるが、報酬の約定に関する立証はないので、本件事案の内容、審理の経過、認容額その他の事情を考慮すると、当審における弁護士費用は、原告両名につきそれぞれ金五〇万円をもつて相当とする。
5 合計
以上によると、原告広の損害額は金九六六万六九三一円同美代子のそれは金九三〇万三〇三七円となる。<以下、省略>
(土田勇 横山匡輝 六車明)